スイ’S LOG

主にセクシャルマイノリティ(アロマンティックやアセクシャル多め)について発信していきます。たまに関係のない思ったことも書きます。

鬱になる人はなるべくしてなる気がする

唐突に身の上話からはいります。私は今年の4月から鬱病という診断を受け、休職をしています。そして休職してから約3ヶ月経ってようやく発病前と同様に動ける日が出てきたかなという状態です。その間に治療として様々な薬を試したり、大切な人と話をしたりとしました。

 少し動けるようになって今までを振り返る余裕が出てきた今思うことは、鬱病はなるべくしてなるのだろうなということです。

 

 鬱病がこころの風邪なんてよく言われていますが、誰にでもかかる可能性があるという点では的を射ていると思います。しかし、風邪というよりは悪い生活習慣が招く生活習慣病に通じているところがあると思います

 鬱病になりやすい人というものに「完璧主義」や「責任感が強い」「気が弱い」などがよく上げられます。そして鬱になった私も例に漏れることなく「完璧主義」「責任感が強い」が当てはまります。

 ただしこれが当てはまると気が付いたのは人に言われてからです。今まで20年生きてきて自分が完璧主義だなんて一切思ったことはなく、なんなら雑にやりすごすタイプだと思っていました。そして、責任感も自分が任されたことは自分の能力の範囲内ならば全て自分でやるというくらいには責任感に溢れていました。(これが責任感に当てはまるのかは置いておいて)

 

 「完璧主義」とか「責任感が強い」というのは自分の理想がとても高い、もしくは自分は独りだと思っていることがあると思います。私は後者のタイプでした。その理由を語ると長くなるので今回は割愛させていただきます。

 自分は独りで誰にも信頼されていないから自暴自棄な行動もするし、全ての物事を自力で解決しようとします。その結果はもうわかりますよね。耐えきれずに鬱になります。私はなりました。

 理想が高いタイプの人は現実と理想のギャップがなかなか埋まらないことに絶望感を抱き、オーバートレーニングのような感じで自分に耐えきれずに鬱になるのだと思います。

 

 「完璧主義」や「責任感が強い」というものに共通する根幹にあるものは『他人を頼ることが下手というものがあると感じています。私自身も他人を頼ることは下手くそで苦手です。まだ方法もよくわかっていません。

 『他人を頼ることが下手』ということは自分の行いに関して他人は入ってきません。一つの作品を一人で作っている芸術家ならありえる話ですが、実際そんなことをしてその負荷に耐えられるようには人間の精神というものはできていません。

 自分が得意なことをして苦手なことはそれが得意な人に任せて作業を分散してストレスを減らしたり、他人を頼って弱音を吐いてストレスを消したりしなければ自分一人だけでストレスを少なくして精神的な負荷を減らすことは難しいのです。ストレス発散を一人で行えるといってもその発散方法を実行できる頻度はかなり高いはずです。

 

 『他人を頼ることが苦手』な理由は様々考えられます。家庭環境が複雑だったり、信頼してた人に裏切られたことがあったり、いじめだったり色々あると思います。私も思い当たるものがあります。学生の頃はそれなりに授業を数回サボったところで試験さえちゃんとしていれば卒業できるものですが、社会人となるとそうはいきません。

 急に逃げる回数や方法を遮断されるのです。そうなると他人を頼ることが苦手、頼れないタイプの人たちは自分にたくさんの責任を押し付けて無理をします。そうなればもう鬱病になるルートに入ってしまったものです。そうして鬱病患者の出来上がり。

 

 過去に負ってしまったトラウマはなかなか消せるものではありません。それでも、僕は自暴自棄になって大切な人を傷つけてから自分が独りじゃなく、自分が思っていた以上に繋がりがあったことを知りました。

 トラウマから派生した習慣のような『他人を頼らないこと』。この傾向がある人は遅かれ早かれ鬱病になるのだろうなと鬱病になった自分を振り返って感じました。

 

 この記事を読んでいただいた方の中に『他人を頼ることが下手』『他人を頼ることが苦手』だと感じている人がいれば、大切な人一人でいいですからほんの少し頼ってみてください。頼り方は何でもいいです。自分が大切な人の声が聴きたいと思ったら迷わず声が聴きたいと伝えて何でもないことを話すとか、将来に迷っていることがあればそれとなくどう思う?って聞いてみたりなんでもいいです。独りじゃない」と、「離れても自分を思ってくれる人がいる」ということを感じてください。それだけで自分が思うより救われます。

 

 締め方がわかりませんがこのあたりでこの記事は終わりにしようと思います。読んでくださった方ありがとうございました。以下、鬱病と薬に関しても私の現状と思いを書いたものになりますのでご覧いただければ幸いです。

 

suilog.hatenablog.jp

 

 

コロナウイルス流行により垣間見えた働き方に思ったこと

 今世界中で新型コロナウイルスにより様々な箇所で様々な理由で過剰ともいえるほど反応してしまっている。中には過剰が適正というものもあるけれど、どう考えても反応することは間違えているだろうというものもある。反応しなくてもいいだろうというものは放っておいても、それ以外のところで少し思うところがあるので文字にして残そうと思う。

 

 Twitterをに眺めていると、ふと『妊娠4ヶ月なのにコロナウイルス感染リスクの高い満員電車に乗って通勤しなければならず、子供の命を守るには会社を辞めるしかないが正社員を辞めると経済的損失が大きすぎる』というツイートを見た。

 知識不足のために妊婦がコロナウイルスに感染するとどうなるかということは知らないが、母子ともに死、もしくは流産となるリスクがそれなりにあってある程度効果があるとされている薬も使えないとかそういうことがあると予想する。コロナウイルスが流行してもしてなくても妊婦を色々な意味でリスクの高い満員電車で通勤させるというのもどうかとも思う。

 そして、このツイートを見たときになぜ会社はリモートワークや時差出勤をさせないのだろうかと考えた。リモートワークに関しては、リモートでの作業が現実的な職種ではないとか社内SEなどがおらず、方法を調べても単語の理解すらできないのかもしれない(PCの知識が誰一人持っていない会社などはいとは思うが)。リモートワークができないならばフレックスタイム制を導入すればいいのにとは思う。いわゆる時差出勤が可能になる。何かの販売店などでオープン時間が決まっているのだとしても、今はどこのお店も開店時間、閉店時間ともにズラしているからもはや関係ない。これら以外にも理由はいくつか考えたがすべて列挙する必要もないので割愛する。

 

 今の日本の会社はなぜかほぼ全てが週5日勤務の計40時間労働である。これは一週間のうちこれだけ最低働きなさいというものではなく、最大これだけにしなさいというものだ。そもそも法が許すからといって最大時間まで働く必要ありますか?

 世の中には毎日残業を3時間しても仕事が終わらないと言っている人もいる。現状のままでは終わらないかもしれないけれど、人を増やすなりやり方を見直して無駄を省くとか様々な方法で一人当たりの作業時間は確実に削れるはずなのだ。金銭的に余裕がなくて人が雇えませんと上役の人が言うならば、皆の残業時間が毎月10時間以下になれば今まで残業代として支払っていた金額で一人二人雇えるんじゃないですかと言えばいい(現実的ではないかもしれないが)。

 また、どう考えても無駄なのに昔からこうしているからとか言われて仕事の仕方を変えさせてもらえないならば、どんどん上の役職の人に相談していけばいい。社長まで行きついてしまって否定されればどうしようもなくなるが、社長が新しい考えを取り入れられない会社は辞めてしまったほうがいいように思う。変化の激しい時代に新しいことができない会社に未来は一切ない。現状上手くいっているかもしれなくても、世の中の少しのイレギュラーであっという間に倒産までこぎつけるから。

 

 別にわざわざ月160時間働かなくても決められた納期に求められてレベルのものができていたらそれでいいと思う。短い時間で高いレベルのものを作るために勉強時間などは膨大にかかるかもしれないけれど、そこは会社というチームがあるのだから既に時間をかけて学んだ人間が上手く立ち回るかノウハウをしっかりと教育するとか色々な方法があるはずだ。

 

 結局、どんなことを言っても実行しない限りは空想の綺麗事でしかないことは分かっている。それでも考えたことを忘れないためにも、全ての物事を投げ捨てようとしたときの枷とするためにも書き残す。

 世の中に不満があるならばできるところから動けばいい。それが現状の自分のためにしかならない勉強だとしても目指す未来に繋げるために行おう。

言葉にする術が欲しい

 最近の世間の雰囲気に当てられて自分の感情がわからなくなっている。真偽の分からない最新情報、不安を煽るような書き方をされた記事、後手後手で適切とは思えない対応を行う政府、信用しようにも信用できない事実が多くて当てにできない政権等々、他にもたくさんあるが感情が乱され続けてしまう。情報を見なければいいと言われても、Twitterを開けば常にトレンドに入り続ける見たくない情報。Twitterを閉じていてもどこかしらにニュースが載っていて見たくなくても見えてしまう。

 良くも悪くも自分の周りの世界の雰囲気に当てられてしまい、思考も感情も全てが影響を受けてしまう。そのため精神状態はもはや最悪。けれど、今の精神状態と感情を適切に表す言葉が自分の中には存在していない。

 昔から自分のことを言葉にすることが苦手で、自分を表現することを極力避けて生きてきた。だいたいの物事に対して自分の中に意見はあるけれど、その意見を的確に伝える術を知らない。どれだけ時間をかけて文章にしてみても上手く書きあがることはないし、直接言葉にしようとしても自分の持つ語彙では簡素に表せなくて長時間説明することになる。結局いつも自分が言いたいことの一欠片だけしか伝えられなくて、終わってから何度もどうすればよかっただろうって考える。

 たぶん、自分のことを周囲の人に伝えることができればもっと生きやすいんだろうなっていつも思う。自分のことがわからないから限界を超えるまで自分ですら自らの状態に気づくことができない。自分の状態は、だいたいいつも取り返しがつかなくなってから知る。生きるか死ぬかに迫られた状態で。

 

文字が読めても文章は読めない?

 日本の識字率は99%。日本人全員と言っていいほどの人が文字を読み書きすることができる。それなのに文章が一切読めない人が一定数存在する

 

 Twitterをしている人であれば頻繁に見かけるはずだ。いわゆるクソリプなのだが、どこにも書かれていないことを突然引っ張ってきて文句を言い始める。その他にも「じゃあこれはどうなんですか」とかいきなり言い始めるやつなどなど。どういう思考回路を持っているのか分からなさすぎて、新種の生物を見ている気分になれる。

 

 文字の読み書きはできるはずなのになぜこういうことが起こるのか。それが俗に読解力とか言われるものの有無になってくるだろう。読解力とは、辞書的な意味を持ち出せば「文章を読み解く能力」である。この読み解くということが大切なのだ。別に文章の裏にある気持ちとか行間を読めなんて言わないし、言えない。

 ただ書いてあることはそのまま理解しようと言いたいのだ。明らかに崩壊した文章や難しい言葉ばかりをわざわざ使っているのなら話が違ってくるが、そんな文章は少ない。

 

 内容が正しいか正しくないかは置いておいて、Aと書いてあればAと理解すればいいのだ。そこがなぜかAと書いてあるのにXと理解する人がいる。もうこれは自然の摂理を解くより難しい問題だ。そうしてねじ曲がって読み解いた人ほどアホほど騒ぐ。まあ当たり前だ。真実の正解すらもその人たちは知ることが一生できないから。

 

 自分の読み解いた情報が本当に合っているのかどうかは判別が付きにくい。けれど、現代にはたくさんの人が情報を発信しているSNSや情報の蓄積物であるインターネットがある。不安になったら調べればいい。自分のすべてを信じて疑わぬ者にこそ”ググれカス”という言葉を差し上げよう。

 

 ちょっと目にして気になったものを調べるだけでいいから調べる習慣をつければいい。自分が気になったものならば雑に調べることはなく、丁寧とは言わなくてもそれなりに文章を読む。文章を読めば書いてあることを理解しようとする。そして、気になったものへの知識が溜まると同時に、たくさんの記事を読めば読むほどに理解のポイントを自然と理解する。そうなれば、AがXになることは減っていくだろう。

 

 書いてあることをそのまま理解できるということは何をするにおいても役に立つ。というか、そのまま理解できなければ困ることしかない。話が通じないから人は離れるし、不要な波風を立てる。炎上の原因を作る人たちこそ書いてあることをそのまま理解する力を身に着けてもらい、インターネット時代だからこそみんなで平和なネットライフを過ごそう。

歩きスマホがかける迷惑。歩きながらの操作にメリットある?

 街中を歩いているとどこでもスマホだけを見つめて歩く人がいる。割合としては若い人と中高年で五分五分くらいの印象。

 

 スマホの操作はわざわざ歩きながらするものだろうか?歩きながらのスマホ操作には何か一つもメリットはない。前を見ないから人に当たるしものすごく些細な段差につまづく。さらにはスマホを地面に落として画面を割るリスクをかなり高めている。どこに良いことがあろうか。

 

 駅のホームなど狭いところで歩きスマホをする人は何を考えているのか分からない。誰かとLINEをしているのかもしれないが別にすぐに返す必要はない。緊急性があるなら電話をすればいいじゃないか。幸いLINEには無料通話がある。

 あるいは1日の予定を確認しているのかもしれない。だが、予定の把握は朝家を出る前にすべきだ。外に出てから立てた予定で上手く回るわけがない。

 あと、ぶつかられまくってうっとおしいとか思いはしないのだろうか。まっすぐ歩いているつもりでもフラフラしたり急に前の人が立ち止まったりでかなりぶつかる。というか、普通に歩いているだけでぶつかられる。何度歩きスマホしている人のスマホを全力で地面に叩き落としたいと思ったことか。

 してもいいなら歩きスマホの人のスマホを叩き落とし、そのスマホを蹴り飛ばしてやりたいものだが器物損壊罪になるからやらない。やったところで憂さ晴らし程度で得することもないだろうし。

 

 歩きスマホはやめようという注意喚起は数年前からかなり頻繁に行われているが一向に効果はない。何かいい対策はないものかと考えた結果、歩きスマホしたい人だけの専用レーンを設ければいいのではと思いついた。一列になって歩けるように壁際に人一人分のスペースを開けて柵を設置する。そして、歩きスマホ許可ゾーンとして通行させる。それ以外の場所での歩きスマホは条例違反で罰金ですみたいにすればいいのではないだろうか。(無茶苦茶なことを言っている自覚はある)

 ここまでしろとは一切言わないけれど、もっと注意喚起以外の具体的な行動をし、身を持って危険さと他人への迷惑さを感じさせるしかあるまい。それほどに歩きスマホをする人は周りに気を使うことができない無能なのだ。

 

 自治体や警察にはもっと取り締まるなどの呼びかけ以外の対策を期待する。大阪では条例化してほしいという声も上がっているらしいので全国にその声が広がり、是非とも歩きスマホに罰則を与え、歩きやすい街になってほしい。歩きスマホをする者に制裁を。

大学進学後とさらにその先の未来

 今の時代、大学に進学しない人のほうが少ない。そう思われている風潮がある。しかし、それは実際は間違いなのである。実際のところ大学・短期大学進学率は浪人生を含めても2018年は57.9%なのである。ソースは以下記事参照。

education-career.jp

 年々増えてきているとはいえ、ここ5年くらいは上昇傾向であるもののほぼ横ばいである。けれど、このやや上昇し続ける傾向が続くのかといわれるとおそらく違う。ある時期に急増するのではないかと考えている。その時期に何が起こるかはわからないが、進学しない人はほとんどいなくなるだろう。

 

 少子化がこれから今より進んでいくと同時に技術が進んでいくことで単純作業などの頭を使わなくていい仕事が消滅する。そうなると就職するだけでもある程度の学歴が必要になる。もしくは、学生時代から結果を出して市場価値があることを数字としてわかるようにしておくかのどちらかでないと職に就けないだろう。

 

 2020年で最後になるがセンター試験が大学進学へのまず最初の分け目の試験だ。そのセンター試験で大きくミスをする者、実力以上の結果が出る者、いつも通りの想定した結果を出す者など様々だ。しかし、その全員に共通するのは大学進学が目的なことだ。受験者の中には、私立に決まっているけれど願書を出したから受けている人もいるかもしれない。その人も国公立ではないだけで大学進学をする人であることには変わりない。そして、センター試験を受けてその約1か月後に各大学の二次試験がある。それを受けて合否が出るというのが今までの国公立大学の入試の流れである。

 

 受験生各々が夢と希望をもって受験に挑んでいると思うが、入学時に抱いた夢を持ったまま4年間過ごすことはとてつもなく大変だ。もちろん学んでいく中で思っていたより楽しくなかったから方向を変えようとかそういうことであれば最初の夢を抱かなくなるのはいいと思う。無理につまらない目標を持っても勉強自体が楽しくないものになるから。

 

 しかし、大学に行ったというのに卒業することが目標になっている学生のなんと多いことか。せっかく専門的に人生をかけて一つの分野を研究している人が身近にいるというのにそういう人たちを頼らずに授業に対して与えられる単位だけを求めている。そこに何かしらの学びがあるのならばいいのだが、単位をとるためだけなら1か月後に覚えている知識すらないのだから学ぶこともないだろう。

 

 

 大学時代に卒業するためだけの勉強しかしなかった人がこれからの社会で高収入になれるかというと難しい。大卒であれば、まだしばらくは就職することはできる。しかし年功序列制度が崩壊してきているから能力がなければ昇進しにくい。一つの会社に長くいても功績がでなければ間違いなく会社の経営が傾いてきたときのリストラ候補に最初にリストアップされるであろう。私が経営者でリストラせざるを得ないとしたら間違いなく自社内でしか通用しないスキルの人から切っていく。それは、現状経営が危ういのに現在していることしかできない人は費用対効果が薄いからだ。

 

 真っ先にリストラ候補にならないためにも勉強の継続というものが大事になる。高校時代までは大学受験というわかりやすく決められた目標に向かって決められた科目の勉強をすればなんとかなる。そして、大学に進学すると自らが選んだ学科・専攻のカリキュラムに沿って科目を選び、自主的に勉強することになる。さらに大学を卒業して就職すると、1年目はわからないことしかないから勉強をある程度はするものの慣れてきたら自らの業務に役立つことや市場価値を高めるための勉強をゼロから考えてすることになる。

 

 自分に足りないものを見つけて勉強するということがいかに難しいか、そして足りないもの自体はわかっていても実際に行動する人がいかに少ないかは社会人になって周囲をみればおのずとわかる。仕事で1日8時間以上拘束され、家に帰ってからも勉強するのはそれなりに大変なことではあるのだがやらなければ成長はない。

 

 現在受験真っ只中の人、春から社会人になる人、社会人1年目の人、まだまだ市場価値の低い人こそ勉強して最初の会社から転職をすれば一気に年収が上がる。ただ業務だけをしてきた人と業務プラスさらに役に立つスキルを持っている人なら確実に後者のほうが採用されやすいし、自己実現もしやすい。

 

 努力を怠った時点から未来の選択肢が急速に減っていくから現状に満足することなく、将来に飢えて貪欲にスキルを磨いて自分の思う未来を手に入れていこう。

道具の進化で変わりゆく競技

 今陸上競技の世界で様々な話題を集めているナイキのヴェイパーフライ。私は陸上競技を何もしていないので何がすごいとかは語ることはできない。それでも世界記録を軽々と塗り替えたり、大会出場者のほとんどが使用していたりとかなり優れたシューズであることは分かる。

 

 今最もホットなニュースとしては世界陸連がこのシューズを禁止する可能性が高いことだろう。私はシューズの禁止は反対だ。理由は大きく二つ。どうせどのメーカーも優れた厚底シューズを出す」ということと「競技の質がさらに高くなる」ということだ。

 

 まず一つ目については現状ナイキ以外にかなり優秀な厚底シューズがないのかもしれない。それでも他のメーカーも馬鹿じゃない。技術がないわけでもない。ただ発想が無かった、もしくは製品化にまで到達していないのどちらかだろう。どこのメーカーも日々選手の声を聞いたり、人間工学を取り入れたり様々な工夫を凝らして速く楽に走ることが出来るシューズを研究しているはずだ

 

 そうなれば、結果を出してしまったものは真似するしかない。真似すると言えば感じが悪いかもしれないが結局は同じことだ。ナイキの厚底シューズ「ヴェイパーフライ」を買ってきて、あらゆる角度から研究して自社にある技術を使って試作してみたり、はたまたゼロからコンセプトだけをもらって作ったりと様々だろうが優れた厚底のシューズを作るということに変わりは無い

 

 どのメーカーも作ると言うことはそれだけ選手の選び幅が増え、厚底シューズ自体が当たり前になる。つまり飽和するということだ。どうせ数年後、早ければ来年くらいにはどのメーカーもいい厚底シューズが出そろうかもしれないからだ。

 

 

 二つ目の競技の質についてだ。良い質の道具を使えば使い手の能力がはっきりと出てくる。人によっては残酷すぎると思うかもしれないが、それが競技の世界だ。強い者が生き残り、弱い者は名前を知られることもなくひっそりと消えていく。そういう弱肉強食の世界だということはたいていの人は知っている。そのギリギリの能力差の中で切磋琢磨するからこそ、新しい記録は生まれるし優れたプレイヤーも育つ。そもそも競技の中に生きるというのは過酷以外の何物でも無い。

 

 ただ日々過酷な練習をするなかで身体の負担を軽減してくれる競技の道具があれば間違いなく高い負荷を掛けることが出来るようになる。例としてマラソンだすと、走るのに膝や脚にかかる負担が違う二種類のシューズがあるとする。片方は大きな負担がかかるがそこそこ軽い。もう片方はかかる負担は小さいが少し重たい。ここで重さで好みで別れることもあるが、まず試してみるのは負担の小さい方だろう。負担が小さければ積み上がる疲労が後々大きく変わるからだ。そして、疲労が少ないなら強度を上げて競技を行える。そして、記録が伸び競技が発展していく。

 

 圧倒的に優れたものを規制したくなる気持ちは分かるのだが、できればして欲しくないというのが私の本音になる。圧倒的に優れた人物のためにルールを変えざるをえないということは過去に例があるが、優れた道具の制限によって競技の進化を妨げるのはいかがなものだろうか。

 優れた人物と優れた道具、そこに才能と圧倒的な努力が加わってこそ競技というものが成立しているのだから世界陸連には選手や監督が正しいと思える理由をもって規制をするかしないか決定して欲しい

朝からダッシュしている人へ

 毎朝、通勤通学で電車を使う人は東京近郊ならかなりの人数いる。毎日満員で無理に押し合い、カバンが突き刺さったり踏まれたり良いことなど何もないのだが移動の足としてはそれなりにコスパがいいから他の手段が成り代わりにくい。

 

 さて、駅に向かうときにいつも走っている人を見かけないだろうか?月曜日の朝から走り、金曜日まで駅に向かい走り続ける。短距離走の練習でもしているのかと思うほどに。

 

 毎朝走って駅に行くのと5分家を出る時間を早めて駅に行くことのどちらがいいかと言われれば当然後者だ。1日の始めに運動としてではなく電車に間に合うためだけに走るなんて無駄すぎる。そこで体力を大量に使って電車で休憩ってそこまでして走る意味あります?

 

 ほんの少し早く家を出れば歩きながら色々なことを考えることも出来る。例えば仕事の困りごと、英単語の復習、週末のことを考えることだってゆっくりできる。なによりダッシュしなくていいから体力を温存できる。これから乗る満員電車への(笑)

 

 毎日ギリギリの時間で生活している人が仕事ができそうな印象を持つこともない。毎朝走る人を見て、どうせ仕事もギリギリでやってて大した成果も出せないんだろうなと勝手ながら思うものだ。というか、ギリギリの電車にしか乗れない人と仕事をしたくない。その人が来る来ないに無駄に振り回されそうだ。

 

 なにか大切な約束があるときは必ず30分前には着くようにするはずなのに日々の仕事や学校はどうでもいいのかという話でもある。個人的な意見だが、通常の出勤で電車が遅延したわけでもなくギリギリに来る人に出世や大役を任せられることはない。時間の効率的な使い方が出来ていないから余裕を持って業務に取り組めないし、本来なら要らない遅刻連絡をするのだ。不必要なことを積み重ねると必要なことは何一つできない。当然のことだ。

 

別に朝ゆっくり歩いて駅に向かったところで何かが大きく変わることはないだろう。それでも、走っていたらできないことはできる。その僅かな時間を積み上げて成果につなげることができればそれで十分に意味が生まれる。

 朝5分のゆとりをもって動くことで平穏に焦ることなく生きていこう

成人式から見えた過去のイジメ・トラウマについて

 成人式が終わって数日。式から今日までに行きたくても過去の出来事が原因で参加できなかった人のツイートを何度も目にした。私も参加しなかった側の一人なのだが、理由は単純で全く知らない土地に半年前に引っ越してきたからだ。

 知り合いや友人の類はおらず、家から最寄り駅までくらいしか土地勘のない場所でわざわざ参加することもないと思ったのだ。私の事例はちょっと特殊なので今回は置いておく。

 

 

 成人式というものは新成人を祝うというものなのに、過去の出来事がトラウマとなって参加できないというのは悲しい気がする。別に面倒だからとかで欠席するのは個人的なことなのでいいのだが他者が理由になると思うところがある。

 

 参加してみたかったという人の不参加の理由は過去にイジメてきた人間に会いたくないや振袖や袴を金銭的理由で諦めた人が多いように思える。金銭的理由もかなり大きな問題になるとは思うのだが、私は人間関係が理由のほうが理由として重たいと思っている。

 

 イジメられた経験のある人というのはほぼ確実に精神的になにか暗いものを抱える。それがトラウマだったり引きこもりになったり、鬱や自殺と様々なものを。(私も抱えているものがある)

 ソースとしては以下の記事を見てほしい。簡単にまとめるとイジメられた人は経過時間を問わず、後遺症として精神疾患のリスクが高くなり、防ぐには加害者に処罰を与える必要があるという内容だ。かなり端的にまとめたため、言葉足らずな部分が多いのでできれば記事本文を読んでほしい。

socialaction.mainichi.jp

 

 私が許せないと心の底から思うのが"イジメてきた人間たち"だ。イジメという行為にはもちろんなのだが、イジメをしたこと自体を忘れてのうのうと暮らしていることが本当に許せないイジメられた側は一生忘れることはないというのに

 

 さらに、イジメられた側はもしかしたら精神疾患でかなりの額の医療費を払うことになっているかもしれないし、イジメが原因のトラウマがあることで行ってみたいと思った場所に行くことすら困難かもしれない。それなのに、した側の人間は一銭も払うことなくどこででも呑気に遊び呆けているのだ。一方的に攻撃されたというのに支払う代償が大きすぎる。これのどこが許せようか。

 

 これから親になっていく世代の人たちには必ず他人に貶められた人間の苦悩をほんの少しでいいから伝えるようにしてほしい。そして、イジメという非人道的な行為が減って欲しい

"大人になること"と"生き方"

毎年1月の第2月曜日は成人の日と決められていて、全国でその前日か当日に成人式が行われる。その式典に参加するのは言うまでも無く新成人。新たに大人となったとされる人たち。しかし、本当の意味での大人になるとはどういうことだろうか。

 

 法律的には現在(2020/01/13時点)では18歳から成人扱いとなっている。18歳に引き下げられたからといって20歳の人と何かが違うのかと言うとそんなことは無いと感じる。あるとすれば高校生かどうかくらいだろう。

 私が高校生3年生の18歳の頃と20歳になった今とで変わったことがあるかと言われれば確かにある。しかしそれは高校を卒業してから経験したことによるもので経験しなくていいならしたくなかったことだ。根本的な考え方や行動の基準に関しては何も変化が無い。欲しいと思った物は熟考を無駄に重ねるし、脳内でシュミレーションを何度もしてから行動に移ることも健在だ。

 それに周りを見てみても高校生と何も変わらない大学3回生や4回生、大学院生は沢山いる。中には高校生の頃、もしくはそれ以前から何も人として成長してないと思えるレベルの人も多く含まれる。時間の経過だけでは大人というものにはなることは出来ないのだと感じてしまう。

 

 そもそも大人としての理想論に当てはめて大人と語るのが間違いなのではないかとも思う。「嫌なことを言われてもその場では笑顔で受け流す」「世のため、人のために行動できる」など何を言っているのだろうか。あまりにも馬鹿馬鹿しい。

 嫌なことを言われれば話を聞き流しながら態度に表していればある程度察してくれる。そして、その後に関係を絶てばいい。会社の得意先だというならば転職するなり担当を変えてもらうなりその人と離れるよううに動けば良いだけだ。

 世のためや人のために動けと言われても完全に自分のためだけに行動できる人は社会にほぼいない。人の後ろに並ぶだけで前に並んでいた人を不快にさせないという人のための行動になる。

 

 大人というものになれば、スティーブ・ジョブズiPhoneで生活を変えたように世間を変えられると思って言っているのだろうか。無理な話だ。一つの国の同じ年齢の人を並べてみれば1人くらいはいるかもしれない。しかしその程度だ。その1人になれるのは当然1人でその他の人は世間など変えられない。変えられて社内の雰囲気程度だろう。むしろ社内の雰囲気を変えられれば優秀なほうかもしれない。

 世間が求める大人になんてなる必要は無い。法律や人としてのマナーなどそれぞれの国と地域でそつなく生きることが出来ればそれでいいじゃないか。そして自分の好きなことを追い求めれていけば。

 世間のイメージ通りになることが大人だというならば私は大人にはなれないし、なりたくもない。自分が憧れてやりたいと思うことができれば、他人から子供だ現実を見ろと言われようがどうだっていい。横から口を出してくる人間が私の生きること・やりたいこと全てを保証してくれるならば従うがそんなことはあり得ないのだから、何事も言われていないかのように無視をする。世間に流され、権力のある人にただ従い、自ら動くことのできない無能にはなりたくは無いのだ。私は、私が思う理想の生き方を大人と思って生きていく