スイ’S LOG

主にセクシャルマイノリティ(アロマンティックやアセクシャル多め)について発信していきます。たまに関係のない思ったことも書きます。

"大人になること"と"生き方"

毎年1月の第2月曜日は成人の日と決められていて、全国でその前日か当日に成人式が行われる。その式典に参加するのは言うまでも無く新成人。新たに大人となったとされる人たち。しかし、本当の意味での大人になるとはどういうことだろうか。

 

 法律的には現在(2020/01/13時点)では18歳から成人扱いとなっている。18歳に引き下げられたからといって20歳の人と何かが違うのかと言うとそんなことは無いと感じる。あるとすれば高校生かどうかくらいだろう。

 私が高校生3年生の18歳の頃と20歳になった今とで変わったことがあるかと言われれば確かにある。しかしそれは高校を卒業してから経験したことによるもので経験しなくていいならしたくなかったことだ。根本的な考え方や行動の基準に関しては何も変化が無い。欲しいと思った物は熟考を無駄に重ねるし、脳内でシュミレーションを何度もしてから行動に移ることも健在だ。

 それに周りを見てみても高校生と何も変わらない大学3回生や4回生、大学院生は沢山いる。中には高校生の頃、もしくはそれ以前から何も人として成長してないと思えるレベルの人も多く含まれる。時間の経過だけでは大人というものにはなることは出来ないのだと感じてしまう。

 

 そもそも大人としての理想論に当てはめて大人と語るのが間違いなのではないかとも思う。「嫌なことを言われてもその場では笑顔で受け流す」「世のため、人のために行動できる」など何を言っているのだろうか。あまりにも馬鹿馬鹿しい。

 嫌なことを言われれば話を聞き流しながら態度に表していればある程度察してくれる。そして、その後に関係を絶てばいい。会社の得意先だというならば転職するなり担当を変えてもらうなりその人と離れるよううに動けば良いだけだ。

 世のためや人のために動けと言われても完全に自分のためだけに行動できる人は社会にほぼいない。人の後ろに並ぶだけで前に並んでいた人を不快にさせないという人のための行動になる。

 

 大人というものになれば、スティーブ・ジョブズiPhoneで生活を変えたように世間を変えられると思って言っているのだろうか。無理な話だ。一つの国の同じ年齢の人を並べてみれば1人くらいはいるかもしれない。しかしその程度だ。その1人になれるのは当然1人でその他の人は世間など変えられない。変えられて社内の雰囲気程度だろう。むしろ社内の雰囲気を変えられれば優秀なほうかもしれない。

 世間が求める大人になんてなる必要は無い。法律や人としてのマナーなどそれぞれの国と地域でそつなく生きることが出来ればそれでいいじゃないか。そして自分の好きなことを追い求めれていけば。

 世間のイメージ通りになることが大人だというならば私は大人にはなれないし、なりたくもない。自分が憧れてやりたいと思うことができれば、他人から子供だ現実を見ろと言われようがどうだっていい。横から口を出してくる人間が私の生きること・やりたいこと全てを保証してくれるならば従うがそんなことはあり得ないのだから、何事も言われていないかのように無視をする。世間に流され、権力のある人にただ従い、自ら動くことのできない無能にはなりたくは無いのだ。私は、私が思う理想の生き方を大人と思って生きていく