スイ’S LOG

主にセクシャルマイノリティ(アロマンティックやアセクシャル多め)について発信していきます。たまに関係のない思ったことも書きます。

結婚指輪だけ特別視されすぎじゃない?

 既婚の証である結婚指輪(エンゲージリング)、左手の薬指に着けますよね。着けること自体は別にどうだっていいんです。ただ、結婚指輪だけ仕事中でも着けてていいっていうことが分からないんです。

 

 結婚指輪だって結局はただの指輪です。それが既婚の証であるけれど、他の指に着けるリングとなにが違うのでしょうか

 仮に右手の薬指に親の形見のリングを着けているとしましょう。そして、左手の薬指には結婚指輪。両手にそれぞれ一つずつリングを着けています。ただそれだけです。

 どうして会社の規定などで結婚指輪はよくてその他のリングが駄目なのか一切理由がわからないのです。仕事の邪魔になるという理由で指輪を着けることが禁止されているとすれば全ての指輪に対して適応されるべきであるし、逆に結婚指輪だけ着けていいという規定ならば結婚指輪のようなシンプルなデザインのものならば着けていいはずです。

 

 そもそもの話になるのですが、なぜ仕事に関係のない見た目を会社に決められなければならないのでしょうか。髪色にしろピアスやネックレスなどのアクセサリーなど自由に着けてもいいじゃないですか。業務に支障がないのならば。(何かしら支障があるならば着けないほうが安全なのは明白ですよね)

 個人的には髪色も規定があったり暗黙の了解で派手な色は駄目みたいなのも納得いっていないのですが髪の話は大きく脱線するので省略します。

 

 結婚が一つのステータスとなることは理解できるのですが、その証の結婚指輪だけをまるで外すことのできない呪いの装備のように着けっぱなしでいいよ、でも他の指輪は着けちゃ駄目だよっていうのどうしてなんですかね。もし何かしら理由があって結婚指輪だけ許可されている規則のある環境にいらっしゃる方がいれば理由を教えていただけると幸いです。

 つまるところ業務に支障がでないのであれば見た目くらい自由にさせてくれという思いばかりが溢れてくるので今回はこの辺りで。

 

AロマやAセクの結婚について

 現代では生涯未婚でも何も言われづらくなってきていますが、それは理解のある一部の人からだけ。実際は、まだまだ昔からのように「結婚しろ」や結婚したらしたで「子供はまだか」などと言われることが多いと思います。

 そんな世の中で恋愛感情がわからないアロマンティック性的感情が他者に向かないアセクシャルの人達はとても生きづらく、悩むことが多いと思います。幸いにも私は年齢的にもまだしつこく結婚だどうだといわれることはないのですが、今後言われるのだろうなと思うと少し気が滅入ります。

 

 今回はアロマンティック・アセクシャルである私が個人的に結婚について思っていることを語ろうかと思います。

 まず、結婚というもの自体には興味はありません。それが恋愛の果てというのならばなおのこと関心すらありません。けれど、結婚というものがお互いに安心して一緒に居られるように努力し、思いやり・尊敬を持ったうえでの関係を構築するための手段であるというならば結婚もいいのかなと思います。けれど、結婚なんてしなくても同棲や隣同士に住んでお互いの自由を確保していれば、結婚というものはしなくてもいいとやはり思います。

 結婚するということに何かメリットを探すのならば、世間的にあの人は結婚しているというステータスを得ることくらいだと考えています。その他にメリットがあるとは思っていません。そして、結婚のデメリットに関してですがデメリットらしいデメリットもありません。強いて言うならば書類手続きがあるくらいでしょうか。

 

 私自身が誰かと一緒にいることに何かを求めるとすれば、無言でいるのが気にならないことお互いに尊敬をもって接し合えることだと考えています。

 一緒にいるときに常に何か喋っていないと不安になるような相手ならば共に生活をしていくことは困難を極めるだろうし、尊敬をお互いにできていなければどちらかは確実に自尊心が削れていくと思います。

 

 そのようなことを考えているとやはり結婚したいと思うことはないけれど、大切な人がいつでも会える距離にいてくれればそれで十分かもしれないなと思います。過去の記事に書いたこともあるのですが、世間的な恋人は要らないが、生きる上でのパートナーは欲しいという感じです。

 人間というのは強くないので独りで生きるには辛いことが多く、それを一緒に乗り越えられる人がいてくれればそれでいいと思います。いつまでも結婚しないのかなど言われることはあると思いますが、自らの価値観のなかで結婚という選択肢を選ぶかどうかです。結婚したいと思った人がいればすればいいし、傍にいたいとだけ思うならば傍にいればいいと思います。ただし、お互いにしっかりと価値観を共有することは前提条件になると思います。

恋愛がどうとか正直どうでもいい

 世の中どうしても男女というものがあってそこに恋愛感情というものがあるというのが当たり前になっています。これは生物学的にみると至極当然のことです。

 ですが、Aロマ&Aセク(わからない方は以下の記事をご参照ください)の私からすればなぜそうも男女を恋愛というものに当てはめて考えようとするのかがわかりません。

 

suilog.hatenablog.jp

  動物の本能として遺伝子を残す(子孫繁栄)というものがあるからというのは頭では理解していますが、有名人の熱愛報道とかはっきり言ってどうでもいいです。これは当事者ではないからどうでもいいと感じている人もいるかもしれません。

 もっとどうでもいいし、何なら少し気持ち悪いとまで思うことがあるのが、「男を落とすテクニック」とか「モテる男の特徴」みたいな見出しの記事で結局性的な話に持っていっている記事です。

 おそらく世間的にはそれなりに需要があるからそれなりの数を見かけるのだと思うのですが、結局身体なのかよと思います。そういうのなら読むなよと思われるのは理解してるので最近は一切読んでません。

 

 どうして世間は人と人の関係性に恋愛を持ち込もうとするのでしょう。セクシャリティは人それぞれあって自認がはっきりしてない人も最近は増えていると思います。そういったことがありながらも「男女の友情はない」と言い切れるのはなぜなのか不思議でたまりません。

 過去の経験から、毎回男女間にこちらは意識してなくても向こうが恋愛感情をもってた、またはその逆でいつの間にか自分が相手に恋愛感情をもってしまうというのなら言い切ってもいいと思います。しかし、そんな人はいないと思います。

 異性の恋人がいても異性の友人がいたはずですし、同性の恋人だとしてもしかりです。単純に相手に興味が持てないとかそういうことがあるのかもしれませんが、それが友情とは言えないのでしょうか。

 

 世の中の恋愛系の記事というものは人に話にくいということがあるかもしれないので需要があるとは思いますが、自分自身の気持ちと向き合って正直に相手と向き合った方が恋愛感情の有無に関わらず良い人間関係になるのではないかと思います。

恋愛感情の好きと友情の好きの違いが分からない

 今回の内容は表題の通りでほぼそこで完結しているような内容なのですが、Aロマ&Aセクの私は人に対して抱く好きの感情に違いはありません

 厳密にいうと、この人の感性が好き、気の遣い方が好きとか違いはありますがそれは個性の存在する人それぞれへの好きであってあくまで細分化しただけにすぎません。

 

 私の友人数人に「恋愛感情と友情の好きに違いはあるのか」と質問しました。そうすると、独占したいという気持ちが含まれるか好きという感情を全部向けてほしいかどうかというものが回答として返ってきました。

 なるほどなぁという気持ちで回答を自分の中で経験があるのかどうか照らし合わせてみたところやはりなかったです。同性異性関係なく好きという感情は私の中では同じでした。

 

 この時点で結論がほぼでてしまっているのですが、もう少し掘り下げていこうと思います。

 私の中で世の中でいう恋人のような関係の人は求めないけれど、生きる上でパートナーという存在は欲しいと思っています。その人に対してと他の友情の好きに関して違うところを自分の中で考察をしました。

 

 そこで見えてきたのは自分というものをさらけ出せるかという点で違いがあるのではないかと思いました。

 もちろん信頼している友人はいますが、それ以上に何を話してもこの人となら衝突してでも話し合いたいという感情がありました。自分の全てを知ってほしいというわけではないですが、あまり他の人には話しにくいことを話せる、私自身の個人的な問題に対してもある程度の理解があってそれを頭ごなしに否定しない、理解しようとしてくれるというのは精神的な安定という意味でも大きいです。

 

 そして、何か相手に合った時には頼りにしてくれると嬉しいという感情もありました。ただ頼るのは私自身を絶対に頼って!ということではなく、もっと信頼できる人がいるならばその人にしていいよという感じです。別にその人の一番の存在になることは求めてないというのが合っているのでしょうかね。

 

 こうやって恋愛をしている人からの意見を聞いてみて自分と照らし合わせてみると意外にも恋愛感情というものはそういうものなのかという発見があったり、自分自身を掘り下げるきっかけになったりしました。

 もし身近にAロマであることを伝えても大丈夫そうな人や恋愛感情ってどんなもの?ってきいて特にこちらの内情を探ってこようとしない人がいれば聞いてみると面白いかと思います。 

恋愛感情の好きと友情の好きの違いが分からない

 今回の内容は表題の通りでほぼそこで完結しているような内容なのですが、Aロマ&Aセクの私は人に対して抱く好きの感情に違いはありません

 厳密にいうと、この人の感性が好き、気の遣い方が好きとか違いはありますがそれは個性の存在する人それぞれへの好きであってあくまで細分化しただけにすぎません。

 

 私の友人数人に「恋愛感情と友情の好きに違いはあるのか」と質問しました。そうすると、独占したいという気持ちが含まれるか好きという感情を全部向けてほしいかどうかというものが回答として返ってきました。

 なるほどなぁという気持ちで回答を自分の中で経験があるのかどうか照らし合わせてみたところやはりなかったです。同性異性関係なく好きという感情は私の中では同じでした。

 

 この時点で結論がほぼでてしまっているのですが、もう少し掘り下げていこうと思います。

 私の中で世の中でいう恋人のような関係の人は求めないけれど、生きる上でパートナーという存在は欲しいと思っています。その人に対してと他の友情の好きに関して違うところを自分の中で考察をしました。

 

 そこで見えてきたのは自分というものをさらけ出せるかという点で違いがあるのではないかと思いました。

 もちろん信頼している友人はいますが、それ以上に何を話してもこの人となら衝突してでも話し合いたいという感情がありました。自分の全てを知ってほしいというわけではないですが、あまり他の人には話しにくいことを話せる、私自身の個人的な問題に対してもある程度の理解があってそれを頭ごなしに否定しない、理解しようとしてくれるというのは精神的な安定という意味でも大きいです。

 

 そして、何か相手に合った時には頼りにしてくれると嬉しいという感情もありました。ただ頼るのは私自身を絶対に頼って!ということではなく、もっと信頼できる人がいるならばその人にしていいよという感じです。別にその人の一番の存在になることは求めてないというのが合っているのでしょうかね。

 

 こうやって恋愛をしている人からの意見を聞いてみて自分と照らし合わせてみると意外にも恋愛感情というものはそういうものなのかという発見があったり、自分自身を掘り下げるきっかけになったりしました。

 もし身近にAロマであることを伝えても大丈夫そうな人や恋愛感情ってどんなもの?ってきいて特にこちらの内情を探ってこようとしない人がいれば聞いてみると面白いかと思います。 

セクシャルマイノリティの生き辛さ

 昨今LGBTの認知が徐々に広まってきたとはいえ、まだまだ理解はされていない状況。さらにLGBTTQQIAAPとかいうと訳わからんというような現状です。正直、LGBTTQQIAAPを全て知って理解しろとは言いたいけど、言えません。理由は単純に多すぎるから。しかも環境や人間関係によって移ろいのあるものなので自認も難しいです。

 

 そうなると周囲に私はこうなの!と知ってもらうことも難しく、自分はどうなんだろうと一人で悩むことになります。そこで「どんな自分も自分!」みたいな感じで流せれば楽でしょうがそんな人はセクシャルマイノリティに該当する人の中には少ないでしょう。

 身の回りにセクシャルマイノリティの理解がある、もしくはセクシャルマイノリティであるという人がいれば相談しやすかったりもしますが、理解がある人は少ないしセクマイ該当者と公言している人はもっと少ないと思います。

 

 Twitterで「アロマンティック」とか「アセクシャル」とか検索をすれば自認で悩んでいる人、自認して自分自身を発信して交流している人などそれなりの数を見受けられます。けれど、それはTwitterの中での話です。

 Twitterという匿名でいられる場所であるからアロマンティックやアセクシャル、その他LGBTを公言しているのだと思います。

 そうやって少しでも自分と同じマイノリティの仲間を匿名でもネット上の関係だけでもいいから見つけると安心するものです。人間は仲間がいれば安心する者なのです。その仲間の数が圧倒的に少ないとしても。

 

 匿名にして自分の情報の全てを隠したうえでやっとセクシャルマイノリティを公言できる世の中であることが辛く感じます。本当ならば、生き物には多様性があり個体差があるのだから同性を好きになる、異性を好きになる、好きの感情が全て同じ等々挙げていけばキリのないセクシャリティを誰かに非難されたり、そのことで敬遠されたりすることはおかしいはずです。

 そして、現実の生活ではあたかもマイノリティではなくマジョリティ側であるかのように振舞わなければいけない。これはとても苦しいことです。自分を偽って行動するわけですから。

 

 私はこの現状を変える力は一切持っていません。せいぜいこうやってブログでアロマンティックやアセクシャルなどのセクシャルマイノリティについて書き続けるだけです。

 そのなかで自分の周りの人の一人でいいから記事を読んでくれて、理解しようとしてくれたら嬉しいと思っています。そして、同じようにセクシャルマイノリティの方も親しい人などに「こういうのがあるんだ。これ読んでみて」って私の書いたものでも、もっとわかりやすい記事等があればそれでもいいので言ってもらえればとても嬉しいです。そうやって身の回りの一人から理解を得て、生きやすい世の中になってほしいと思います。

アロマンティックやアセクシャルなどのセクシャルマイノリティの自認は難しい

 私は、アロマンティックもアセクシャルも意味を知ったと同時にすんなりと自認することができました。それはやはり過去の経験によるものが大きかったなと思います。

 過去の経験についてはこちらに簡単に書いてあります。

 

suilog.hatenablog.jp

 

 アロマンティックの方は誰かと付き合ったことがなければ、「恋をできるような人と出会っていないだけではないか」と考えがちだと思います。そして周囲にそのことを相談すると大抵「まだ出会ってないだけだよ~これからこれから」みたいな無責任な言葉が返ってくると思います。この辺りにアロマンティックの認知度の低さが見えますね。

 

 私が思うアロマンティックは、誰かを特別扱いすることはあれど、その人に対する好きという感情は他の誰とも同じ”です。私の特別扱いというのは、誕生日を祝ったりだとか遊びに行くときに相手が好きそうな場所を提案したりだとかかなり相手を気遣った対応になります。この特別扱いというのは人それぞれあると思います。例えば、誕生日を知っている人は全員祝うけれどプレゼントに差があるとかそういうことです。

 

 アロマンティックは誰に対しても好きという感情は同じではないか?と思うことで自認しやすいのですが、問題はアセクシャルです。

 性嫌悪が明らかにあったり体を求められたときに好きな相手でも嫌な気分になったり、興味ないなと単純に思えたら楽なのですが、実際はそうはいきません。

 性嫌悪がある人は私の知る限りではかなり少ないですし、体の関係を求められるまでの関係性になるまでの道のりも案外遠かったりします。そもそもアロマンティックで恋人を求めないからそういう経験に縁がなかなかないという人もいます。

 

 そこで私が思うのははっきりしないならはっきりしないままでいい”ということです。LGBTにはエスチョニング』という自認がはっきりしないという分類もあります

 自分はアロマンティックだと思っていたけれど、実際はデミロマンティックだったとかそういうこともよくある話です。自認をして自分はこういう生き方だ、こんな人間ですとはっきり決めれればそれが安心できるし、楽でいいとは思うのですが実際そんな簡単なことではないですよね。他人に持つ感情というものは些細な出来事一つで変わるものです。

 なので、自分はアロマンティックだ、アセクシャルだと完璧に決めつけずにそういった傾向がある程度に留めておいてもいいと思います。もしかしたらその方が悩みが少し軽くなるかもしれません。自分はこうなんだと決めつけてしまうとそれにひっぱられてしまうということもよくある話ですので。

 

 LGBTは大抵の場合異性にしろ同性にしろ相手がいます。そしてその相手に恋心であるとか性的欲求というものを抱きます。それが自分の中にないとなると友人との恋愛話に興味が持てずに曖昧に返すしかなくなったりしてしまいます。

 だからこそ、私はアロマンティックっぽいとかアセクシャルっぽいとかはっきりしないけどそうかもと偏見を持ちそうにない人がいれば、伝えてみれば楽になるかもしれません。それはネット上でもいいです。

 

 Twitterなどを見てみると、私自身もそうですがプロフィールの欄にAロマとかAセクとか書いてある方を結構見かけます。そういった方に勇気をもってDMでも共感したツイートにリプライでも(私の場合はRTしていただいたらツイートを見に行きます)少し声をかけてみることで何がきっかけで自認したとかこういう苦労があったとか参考になったり共感できるお話が聴けるかもしれません。そこからさらに同じセクシャルマイノリティの人達との交流が始まっていくかもしれません。

 

 大切なのは初めの一歩です。それだけで何かしらが変わってくると思います。その一歩は数あるセクシャルマイノリティを調べてみるでもいいし、このブログにコメントをいただいてもTwitterで私やAロマ・Aセクについて発信している人にリプやDMを送ってみることでもいいです。

 動くことでしかしれない世界があります私の第一歩は徹底的に調べることでした。そこからこうやってブログを書いたり身近な人に打ち明ける勇気を持てたりしています。アロマンティックやアセクシャルで悩んでいるなら色々話を聞いてみると自分と似通ったものが見つかり、自認がしやすくなるかもしれません。とにかく動いてみることです。

 

 まだまだ一般的なLGBに比べて特にアロマンティックは情報が少ないですが、私はこれからもまだ発信していきます。その中でロマンティックの人やセクシャルの人(世間一般と呼ばれる人達)に認知が広がればいいと思っているし、悩んでいる人の小さな支えになればなとも思っています。

LGBTやアセクシャル、アロマンティックで悩んでいる人は多い?

 先日、こちらの恋愛主義の世の中について少しだけ触れ、ほぼアセクシャルやアロマンティックの解説になってしまった記事。こちらが個人比でかなりの数読まれています。

 

suilog.hatenablog.jp

  これが読まれているということは、やはり悩んでいる人が多いからということではないかなと思います。

 私は特に悩まず、こういうものがあると知った時に「あ、自分に当てはまるな」とストンと違和感を抱くことなくアロマンティック・アセクシャルを自覚しました。過去の経験と照らし合わせることができたのも大きいかもしれません。

 

 一応高校時代にちゃんとした告白(いわゆる「好きです。付き合ってください」的なやつ)をせずにノリで付き合い始めた恋愛経験があります。これは高校卒業と同時に私のメンタルの不安定(自分とこれ以上付き合っていても相手は幸せになれないという勝手な決めつけ)とともに終わりを告げるのですが…

 

 しかし、この話続きがあって実は、お互いがアロマンティック・アセクシャルであることが後に判明しました。今になって振り返れば、学校が違っていたけれどお互いに何を求めるでもなく他愛ない雑談のような連絡を取り合い、一緒にいるときは無言でよくいたりとおそらく世間の描くような恋愛はしていませんでした

 

 そのため気がつかなかったのです。世間の恋愛と自分たちの思っている恋愛というものが異なっていることに。アロマンティックやアセクシャルという概念を知って当時を振り返りながらお互いに話しあってみたら同じようなことを思っていたのです。

 相手には特に何も求めず、存在を感じる距離にいてくれればそれでいいとお互いに思っていました。それだけでよかったのです。別に目の前にいてもスマホでゲームをしていてもいいし、何か思ったことがあれば話せばいい。それがお互いにぴったりの距離でした。

 

 私のようなケースは稀なことだと思います。別れてから相手の誕生日を一ヶ月遅れで思い出してお祝いの連絡を入れ、それから色々と話して分かったことです。付き合っていた当時はアロマンティックはおろかアセクシャルすら聞いたことはあるかな程度でした。そして、それらに自分が該当するとは露ほども疑っていませんでした。世間一般といわれるロマンティック・セクシャルだと思っていました。

 

 私個人的には世間でいうような恋人は一切求めません。それでも生きるうえでのパートナーは欲しいなと思います

 そのパートナーに求めることは無言でいても居心地がよく、互いに自由に行動して食事を一緒に食べるということだけ。書くと簡単だけれど実際にこれに合うような人は滅多にいません。

 もしかしたらアロマンティック・アセクシャルの人達が集まる機会があってそこで意気投合すればあるのかもしれませんが、普通に暮らしているとまず会わないかなと思います。そもそもアロマンティックの認知度が低いので恋愛感情がないということを自覚せずに世間の恋愛が何となく肌に合わないなと感じている人もいると思います。そういう人ももしかしたらアロマンティックやアセクシャルかもしれません。

 

 世間一般の圧力はやはり強いです。数の力にはどう足掻いても一庶民では敵いません。それでも愛している人がいれば、どういうことを相手に求めているかを伝えたほうがいいと思います。私達は求めるものを伝えあっていればおそらく今も別れることはなかったと思いますし、今から復縁しようとおもえば可能だよねという話もしました。

 

 アロマンティックで恋愛がわからないという人は、一緒にいて居心地がいいと思える人に私がパートナーに求めるようなもののようなことを伝えてみてもいいと思います。相手がアロマンティックではない可能性が高いので理解されないこともあるかもしれませんが、おそらく居心地がよく長く一緒にいる人ならばある程度の理解はもらえると思います。

 

 LGBTなどのセクシャルマイノリティ知名度は上がってきているものの理解度はまだまだではないかなと思います。マイノリティであるからこその悩みはあると思います。その悩みは人それぞれですが、マイノリティ同士ならば共感できることもあります。身近に同じセクシャルマイノリティの人がいれば話してみるといいと思います。一人じゃないとわかるからこそ安心できることもあるし、考え方の違いから悩みが解決に近づくかもしれません。(悪い方向に行くこともあるかもしれませんが)

 やらない後悔よりもやる後悔のほうが圧倒的に良いです。私達は伝えるということをしなかったからこそ互いに嫌うことも嫌な箇所があるわけでもなく、最適距離のパートナーを失いましたから。

 

 マイノリティであるからこそ理解されづらく、悩みやすいと思います。そこで立ち止まらず怖いけれど一歩を踏み出してみましょう。その一歩がどうなるかはわかりませんが必ず現実は良いほうにも悪いほうにもどちらにでも動きます。そうやって動きながら理解を得ていくことが大切になるのではないかなと私は思います。

 

 

恋愛至上主義の世の中が気持ち悪い

 昨今LGBTが主張され、わずかではありますが浸透してきた感じがあります。けれどLGBTって本当はもっとあってLGBTTQQIAAPというほどあるのです。これについてそれぞれ説明したいわけではないので知りたい方は以下の記事をご参照ください。

jibun-rashiku.jp

 

 今回詳しくお話したいのはLGBTTQQIAAPの中の一つ目のA、アセクシャル(Asexual)についてです。これは私自身が該当しますし、タイトルに絡んでくるものなので説明します。

 

 アセクシャル(Asexual)とは性的志向が異性にも同性にも向かない人です。これについては近年ノンセクとか言われたりして認知が広がってきたのかなと思います。

 ただ、それ以上に認知をしてほしいと思っていることがアロマンティック(Aromantic)です。日本ではアセクシャルの中にアロマンティックを内包していることもあるのですが、全くの別物なので解説します。

 

 アロマンティック(Aromantic)とは、恋愛感情を抱かない人です。そのため恋をするという感覚がよくわかりません。異性に抱く好きも同性に抱く好きも同じなのです。これだけ聞くと、恋愛経験がないとかバイセクシャルといわれそうですが、そうではないのです。

 恋愛映画や恋愛ドラマのようなトキメキとでも呼ばれるのでしょうか。そういうものがないのです。私自身がアロマンティックなので映画やドラマでさえよくいうキュンとするみたいなことがわからないのです。

 

 そしてアロマンティックを説明するうえで大切なのが性的志向は他者に向くということです。アロマンティックが持ち合わせないのは恋愛感情であって性的欲求ではありません。

 

 ここでアセクシャルとアロマンティックの違いを明確にしておきます。アセクシャル性的志向は誰にも向かないけど恋はします。そして、アロマンティックは恋はしないけど性的志向は他者にむきます。ここは入り混じらないように理解していただきたいです。

 

 ここからようやく私自身の話に入ります。私はアロマンティック・アセクシャルです。つまり恋愛感情をもたなければ性的欲求もないということになります。そのため女性とご飯に誘ってもそれが端から見ればデートに誘ってるように見えても、個人的にはその人自身に興味をもって話してみたいと思って誘っています。そのため世論が「男女の友情はありえない。必ず恋愛感情が入る」みたいになっていることが嫌になります

 

 私は男女の友情は成立すると思っています。もしかしたら今までの交友関係の中で私が気が付いていないだけで相手が恋愛感情を抱いていてくれたこともあったかもしれません。けれど、恋愛的アプローチをされても一切わからないので直接言われる等知る機会がない限り友達から一切関係は変わりません。

 時間が経つにつれて暖簾に腕押し状態の恋愛は忘れ、恋愛感情は持たないけど仲のいい異性の友人という枠に次第に収まるのではと思います。私自身は元から友達という認識でそれ以上でもそれ以下でもないのが普通なので、こうして男女の友情が成り立つのだと思っています。

 

 それなのに男女が二人で会えば気があるのかとかすぐに言われる世の中が正直嫌いです。あと、恋愛してない人は底辺みたいな風潮もものすごく嫌いです。恋愛で物事を測るようなもの世論が気持ち悪いとまで思います。

 

 恋愛をするもしないも自由。誰を好きになるかも自由。そのはずなのに必ず男は女を好きになり、女は男を好きになる。このような暗黙のルールが未だにある気がします。学術的に研究もされていますし、そういう偏見のようなものがなくなればいいと思っています。

 そして、人間関係の何かを語るときに一般的な恋愛が前提となっている現状が、恋愛そのものがわからない人間がいるということも頭の片隅に入れて語ってほしいものです。(恋愛について語るときは自由に恋愛について語ってくださいね)

 

 なんだか書いていると説明ばかりで思ってたのとちょっと違う形になってしまったのでまたこの話題については触れようと思います。

2020/07/04追記:想像以上に読んでいただけていてセクシャルマイノリティの方達の悩みの解決の助けに少しでもなればと思い、記事を一つ書きました。

 

suilog.hatenablog.jp

 

鬱病と薬の関係。薬は必要であって悪いものではない

現在私は鬱病で投薬治療しています。鬱に関してはこちらの記事をご覧いただければと思います。

 

suilog.hatenablog.jp

 今回は、鬱病の投薬治療についてです。始めに伝えておきますが私は医療者ではなく普通の鬱病患者です。そのため間違った点もあると思いますし、私自身の経験というものなので全ての情報を鵜呑みにされることはないようお気を付けください。

 

鬱病の治療のための薬は基本的には2種類用いられます。抗うつ薬睡眠薬です。抗うつ薬は憂鬱な気分を改善するため。睡眠薬鬱病不眠症が併発することが多いので安定した睡眠を得るために用います。

 

 ここで私の現在(2020/06/23)の薬遍歴を断薬したものは理由とともおくすり手帳に記載してある名称で掲載します。

・初診

サインバルタカプセル20㎎」という抗うつ薬とその副作用の胃のむかつきを抑える胃腸薬の「モサプリドクエン酸円錠5㎎」が処方されました。この後サインバルタは60㎎まで増量されますが継続中です。この2種類は以降継続のため省略します。

・2診察目

ベルソムラ錠15㎎」という睡眠薬が処方されました。これは効果がなく中止となりました。

・3診察目

ロゼレム錠8㎎」という睡眠薬が処方されました。これは寝付けるようになったのでしばらく飲んでいました。

・4診察目

ロゼレム錠8㎎」に加えて「ブロチゾラム錠0.25㎎」という睡眠薬が追加されました。これは早朝覚醒があるものの寝れるには寝れるため現在も服用中です。それと「エビリファイ錠1㎎」という抗うつ薬が処方されましたが、アカシジア(そわそわして落ち着かない症状)が副作用として発症したため中止しました。

・5診察目

「レキサルティ錠1㎎」という抗うつ薬が処方されました。これは睡眠薬を飲んでいるにもかかわらず寝れなくなり、かつ軽度のアカシジアが発症したため中止しました。

この時点で飲んでいる薬は「サインバルタ錠30㎎」「モサプリドクエン酸円錠5㎎」「レキサルティ錠1㎎」「ロゼレム錠8㎎」「ブロチゾラム錠0.25㎎」の5種類です。

・6診察目

フルトニゼパム錠1㎎」という睡眠薬が追加されました。これは「ブロチゾラム錠0.25㎎」だけでは睡眠が不十分であると医師が判断したためです。それと天気痛の頭痛薬として「リボトリール錠0.5㎎」も処方されています。

 私からの依頼で頭痛薬を追加したため、一度に新しくたくさんの薬を飲み始めるべきではないという医師の判断で抗うつ薬の新規処方は見送られました。

・7診察目

ミルタザピン錠15㎎」という抗うつ薬が処方されました。これは副作用として過眠があり、見事に過眠を発症したため中止となりました。

・8診察目(現在)

アモキサンカプセル10㎎」という抗うつ薬が処方されました。この薬については飲み始めなので副作用がでるか正作用がでるかまだ判断できる状態ではないので詳しくはコメントしません。

現在飲んでいる薬としては「サインバルタ錠30㎎」「モサプリドクエン酸円錠5㎎」「フルトニゼパム錠1㎎」「ブロチゾラム錠0.25㎎」「アモキサンカプセル10㎎」「リボトリール錠0.5㎎」(リボトリール錠0.5㎎は頭痛時のみ)

 

 以上かなり長くなりましたが私が経験した薬の一覧となります。これだけ副作用ばかりで中止、新規処方を繰り返しているのを見れば薬なんてと思う方もいるでしょう。

 それでも、私はこの薬たちが無駄だったとは一切思いません。確かに副作用の中には少し辛いものもあったりはしましたが少しずつ改善していったことは確かなのです。もしかしたらプラシーボ効果で本当はどの薬も効いていないのかもしれません。そうだとしても動くこともできないような状態の鬱病だった私がこうやってブログを書けています。

 

 抗うつ薬睡眠薬は相性が人それぞれにある分相性のいいものが見つかるまではかなりの数の薬を試す可能性もあります。私の場合になりますが、薬が効きやすい体質かもしれないからと医師が本来は1錠飲むところを半錠にして処方していただいたりと薬の種類は手探りですが、体調に気を遣っていただいています。これは医師の考え方にもよるので様々ですが患者を雑に診る医師は非常に少数だと思います。

 

 薬なんか飲まなくても時間が解決するという考えの方もいるとは思います。なんせ鬱病はこころの風邪なんて世間で言われることもあるのですから。(風邪は寝てれば治りますからね)

 しかし、風邪をひいて薬を飲んで早く治すように鬱病も人それぞれ薬の相性が難しいだけで早く治すために薬を飲みます。そのことだけは理解をしていただきたいと思います。抗うつ薬睡眠薬も医師の診断の元で適切な量を飲めば問題ないのです。決してODなどしなければ。(自戒を込めて)